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民法の概要Civil Code Overview

1 民法の目的

@近代市民社会と民法


 我々が生きている近代市民社会では、封建社会のように生活に必要な物を原則として全て自ら生産して自らの用に供する・いわゆる自給自足の生活を送っているわけではなく、いわゆる「社会的分業」と呼ばれる生産形態がとられている。そこでは生活に必要な商品などを売買・交換・賃貸等する必要がある。
 ところで、現代に生きる我々にとってごく当たり前と思える商品交換も、近代以前の社会では、かなり限られていた。たしかに貨幣はすでに遊牧民の間に登場したといわれるし、中世封建社会では都市と農村の間ではすでに社会的分業が行われており、従って、他人に売ることを目的として生産が行われ(商品生産)、その結果商品交換(売買)が行われたのではあるが、しかしこの時代では、商品が生産される過程=生産過程では商品交換は行われなかったのである。つまり、都市における手工業の親方対職人徒弟の間の生産関係、農村における領主対農民の間の生産関係においては、それぞれ、両者間に存在する身分の違いを利用して(身分的支配服従関係を媒介として)親方が職人徒弟から、領主が農民から、その労働力を強制的に奪いとって商品生産を行っていたのである。労働力を商品として労働者が雇主たる資本家に売ることができるようになった近代社会においてはじめて、生産過程においてもまた、商品交換が行われるようになったのである。
 こうして近代社会は、労働力の商品化によって生産・流通の両過程にわたって商品交換が普遍化し、ここに社会関係の全ての側面において商品交換関係が基礎とされるにいたったのである。
 さて、商品交換は交換当事者の私的所有物の交換である。従って、交換される際は、まず、交換されあう物がそれぞれ相手方の所有物であることを両当事者が承認しあうことが必要である(私的所有の相互承認)。経済構造上必然化した商品交換は、法的には私的所有を前提として「契約」の形をとるから、その意味において、近代社会は契約社会といえよう。

A私法としての民法


 近代社会における制定法(成文法)は、公法と私法とにはっきり分けられる(公法と私法の峻別)。公法は、当事者の一方が国家機関として他方に対して一定の公権力を行使する場合に、このような法律関係を規律する法をいう。従って公法関係は、一方が公権力を行使し他方がその権力行使を甘受する関係、すなわち当事者の一方が命令し他方がこれに服従するという、一種の権力的支配服従関係にほかならない。
 これに対して、私法は、個人対個人の法律関係に適用される法をいうのである。近代社会では個人は互いに対等・平等とされるから、私法関係は、互いに対等・平等な個人が権利を行使し義務を負う権利義務関係として構成され、利害関係に立つ個人間の財産取引関係と、互いに夫婦関係ないし親子など血縁関係にある個人間の関係すなわち広い意味での家族関係との双方を含む。この両関係をあわせて規律する最も基本的な法律が民法である。即ち民法は、右の二つの関係のうち、前者を規律する財産法と後者を規律する家族法の2つの法領域から成る。
 近代私法は全ての個人を、人それぞれが具体的に身にまとうもの(性別、年齢、人生経験、知能、学歴、社会的地位、社会的物質的富)を捨象し単に自由な意思の持主(自発的=主体的な意思の担い手)として見ている。この意味において、法の世界における人間像は、具体的な人間像ではなく、きわめて抽象的な人間像となる。なお、このような主体的意思の担い手としての人間のことを「法的人格」ないし単に「人格」と呼ぶ。こうして、個人対個人の法律関係を規律する私法は、ある法律関係における両当事者に「抽象的に平等な保護」と「形式において平等な保護」を与えることを特色とする。
 まず、前者は、両当事者間に存する具体的な相違を全てとり去り文字通り裸の市民とみて、両当事者に同程度の権利を与え同程度の義務を課するということである。
 つぎに、後者は、具体的な法律関係、例えば売買関係において、両当事者の立つ地位すなわち売主・買主という立場にかかわらず、両当事者を平等に保護するということである。
 私法の特色としてのこうした2つの保護は、近代市民社会の構造に由来する。@で示したように、近代市民社会は、社会的分業を基礎とする商品交換社会である。社会の構成要素をなす貨幣を媒介とする商品交換関係では、交換両当事者つまり広い意味での売主と買主は、「人格」としてとらえられる限り、本来対等の関係にあり、決して一方が他方よりも優越するわけではなく、この対等性は両者の具体的な相違とりわけ社会的力関係のそれによって変わるものではない。

B権利の体系としての民法


 近代社会では、どのような利益であっても個人の具体的な利益の実現が他人によって妨害されたり、すでに実現されている利益が他人によって侵害されたためにその利益を十分に享受できない場合には、その妨害の排除や侵害された利益の回復を裁判によって求めることができ、その結果、裁判によって妨害の排除や利益の回復が確定されると、国家権力(強制力)によって妨害排除や利益の回復が実現される。
 このように、他人に主張することができ・国に保護(法的保護)を求めることができる具体的な利益そのもの、ないしその利益主張を「実体的権利(実体権)」ないし単に「権利」と呼ぶ。そして国の強制力によるそのような保護(法的保護)をうけるために訴訟を起こす権利を「訴権」と呼ぶ。
 権利が、個人が主張することを社会的に認められ法的保護に値する利益だとすれば、権利者の権利(利益)主張に対応して、義務とは、相手の権利を認めた場合にその利益主張の実現のためにとらねばならない行動である。
 また、権利には必ず義務が対応する。そして、私法関係は常に権利義務関係として構成される。
 では、権利の体系近代社会における個人間の法律関係が権利義務関係であるとすれば、近代法は、「義務」の体系として構成されることも可能なはずであるのに、 「権利」の体系として構成されているのはなぜだろうか。
 それは次のような理由によると思われる。即ち、近代社会において人が生きていくためには、商品交換がどうしても必要であるとすれば、その商品交換は私的所有と私的所有との交換であるから、必然的に何らかの私的所有を人はもっていなければならないのである。いいかえれば、人は私有財産をもたない限り、この社会では生きていかれないのである。この意味において、私的所有の法的表現たる所有権は近代法上最も重要な権利である(憲29条)。そこで、近代法は所有権を中心に権利の体系として構成されることにならざるをえないのである。

2 民法の発展と沿革


@民法の発生


 現在の民法と呼ばれる法典の萌芽は古代ローマにあった。
 紀元前1000年ころ、イタリア半島を南下してきた民族は、紀元前600年頃に王政ローマ市を建設した。その後、紀元前509年には王を追放して、共和政が樹立され、前272年にはイタリア半島を統一し、さらに領土を拡大して、地中海をすべて取り囲む大国となった。
 ローマの支配権が拡大し、商取引が盛んになることで、裁判制度が発達し、それに伴いそこで適用される法も発達した。この法の形成においては、国家(国王)はあまり強い規制を加えなかったことから、法学者たちにより裁判理論が高度に発展して行くことになった。
 このようにして形成されてきた法を集大成したのが、ユスティニアヌス帝(在位527〜565年)のもとで編纂された「ローマ法大全」である。ただ、これは学説の寄せ集めであり、体系化されているものではなかった。

Aドイツにおけるローマ法の継受


 ローマ法は、広くローマの支配領域において適用されたが、全ヨーロッパを覆い尽くしたわけではなかった。現在のフランスの南半分ではローマ法が適用されていたが、北半分では独自の慣習法が発達した。ただ、その慣習法(ゲルマニア慣習法)は契約法や債権債務の法がきわめて不備であったため、徐々にローマ法に基づく処理が行われるようになった。また、現在のドイツにあたるところではローマの支配が及ばず、ゲルマニア種族の慣習法がそこでの法であった。
 このような状況は395のローマ帝国の分割、476年の西ローマ帝国の滅亡後にも残った。つまり、ローマ帝国が滅びた後もローマ法は生き残ることになる。

 一時期衰退していたローマ法研究は、12世紀頃からイタリアで復活する。ドイツ帝国(神聖ローマ帝国)皇帝が、皇帝の権利を強化する理論的基盤として、この研究成果を取り入れようと試みた。しかし、その試みは失敗におわり、ドイツ帝国内に多くの領邦・自治都市が形成され分裂状態に陥った。だが、この分裂状態による自治都市は、みずからの支配を確立するために専門的な法技術を必要とし、イタリアの大学でローマ法を学んだ者たちを多く登用するという結果を生む。また、ゲルマン種族の慣習法であるゲルマン法が、もはや時代の要求に合致しなくなっていたという事情もあった。
 1495年には皇室裁判所の裁判官の半数がローマ法を学んだ法曹でなければならないとされ、さらには、裁判所においては、各領邦や都市の方が欠けているときには、ローマ法を共通法として適用すべきものとまでされた。
 ただ、ローマ法は紀元前に作られたものであり、そのままのかたちで適用できないものも多い。当時の領邦や都市の現実に適応するように修正されながら適用されたのである。このようなローマ法の現代的修正は、16世紀の終わりから学者の手によって大幅に推進された。先述したように、ローマ法大全は学説集に近いものであり、体系付けられていたわけではなかった。この時期にこれらの学説集を体系化し、場当たり的だったルールを実用的な一般的な法原則に作り直し、当時の社会の現状にあわせて使用できるように法秩序を再建することが行われたのである。これをパンデクテンの現代的慣用という。
 ローマ法はドイツに受け継がれ、体系付けられて新たな生命を吹き込まれたのである。

Bフランス革命とドイツの統一


 フランスではドイツのようにはっきりとした形でローマ法が継受されたわけではなかった。フランスでは各地の慣習法が発達していたが、ローマ法がそれに影響を与えていた。たとえば、契約法は、全国的にほぼ一律の内容をもっていたが、これには教会法(カトリック教会の全構成員を対象とする信仰・倫理・規律に関する法)の原理とともに、ローマ法によって規律されていた。
 1789年に始まったフランス革命により、法はすべての市民が理解し得るものとして、明確な用語による成文のものでなければならないという思想のもと、フランス全土の統一的な民法典を作る作業が開始される。
 1804年3月、ナポレオンが深く関与したフランス民法典が完成した。ここに、近代的な意味における民法典が出現したのである。

 一方、ドイツ帝国は、ナポレオンにより一応のまとまりを崩壊させられていた。ナポレオン敗北後の1815年に再びドイツ連邦として再発足する。最終的にドイツが統一したのは1871年であり、1874年からドイツ全土の統一的な民法典の準備が始まり、1896年にドイツ民法典が完成し、1900年から施行された。
 このドイツ民法典は、前述したパンデクテンの現代的慣用をめざす法学者の見解に大きな影響を受けており、ローマ法の継受が色濃い。また、フランス民法典は当時のフランス各地の慣習法をもとにしたものではあったが、その慣習法にもローマ法の影響を受けている部分が多くあった。

C英米における民法典の発足


 周知のとおり、英国といっても、連合国であり法体系はそれぞれ異なる。以下、イングランドに関して言及する。
 5世紀までのローマの支配、1066年のノルマン人による制服にもかかわらず、イングランドの法はローマ法やノルマン慣習法の決定的な影響を受けることなく、独自の発展を遂げた。その最大の特徴は、裁判例の積み重ねによる法の発展である。最初は、各地域の自治組織による裁判所や領主の裁判所が、それぞれの法を適用していたが、国王の力が強くなることによって、国王の裁判所の適用する方がイングランド王国内で共通に行われる法であるということになってきた。これをコモン・ロー(共通の法)と呼ぶ。それとともに、コモン・ローを補完するものとして、大法官とよばれる職にある者の裁判権が認められるようになる。これによって、エクイティとよばれる法領域が形成されてくる。
 イングランドは、外国法を継受するという方法ではなく、裁判所の判決の積み重ねによる法形成がなされたということがいえる。このようなイングランドの法の基本的性格は、現在に至るまで維持されている。つまり、イングランドには民法と呼ばれる制定法が存在しない。

 アメリカ合衆国は、イングランドからの移住者によって建国されたものであり、基本的にはイングランド法を受け継いでいる。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなども同様である。つまり、判例法主義を採用している。

D日本での民法の萌芽


 日本で法律という場合、暗黙の了解で明治以降に定められたものを意味する。しかし、もちろん、江戸時代、さらにそれ以前にも、私法は存在した。ただ、刑罰に関するものが中心であり、裁判といえば刑事裁判があくまで中心であった。商取引や親族・相続に関する法は、武家と庶民とで異なり、また各藩・各地域で様々であった。だた、わが国の法の発展も世界の歩調と同じであり、藩法・地域慣習法も徐々に発達し、特に取引に関する法については大阪法が全国の基準となってくるなど、ある程度共通性もあった。
 1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦四隻を率いて浦賀沖に現れ、幕府に開国を迫ったのは周知の通りである。翌年、幕府はペリーと日米和親条約を締結し、1858年、日米通商条約を締結した。同様の条約は、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも締結された。

 この条約において不平等な点は、領事裁判権の承認であった。つまり、外国人が我国内において刑事事件の被告人となるときはもちろん、民事事件において被告となるときも、その外国人が属する国の領事が、その裁判を行った。つまり、外国人は、日本国内でも自国の法律の適用を主張できるということである。

 1867年、幕府は朝廷に政権を返上(大政奉還)、明治政府は早くから上記条約の改正の必要性を認識し、各国と交渉に入る。西欧式の近代的な法典がない日本には、安心して自国民の裁判を任せられないという理由が大きかったと言われている。そこで、明治政府は、西欧式の法典と裁判制度を緊急に整備する必要に迫られることになった。

 1869年(明治2年)の段階から、江藤新平の指示のもと、箕作麟祥(みつくりりんしょう)がフランスの法典(ナポレオン法典)の翻訳を始めた。江藤は、箕作に翻訳させたフランス法をそのまま我国の法律として公布しようと考えていたようである。「誤訳も亦妨ず、唯速訳せよ」というのは当時の状況を現す有名な言葉である。
 しかし、これらの翻訳的な民法典は結局、施行されなかった。その間、明示7年、江藤が佐賀の乱で処刑され、明治13年(1880年)になって、いわゆる「お雇い外国人」であるギュスタヴ・エミール・ボアソナードの手によって民法のうち財産法の部分の起草がはじまった。
 ボアソナードは、当時パリ大学法学部の助教授であったが、明治6年(1873)に我国に招かれ、日本人に法学教育を施すとともに、各種の立法事業を行った。
 フランス人のボアソナードが起草する民法は、必然的にフランス民法に近いものとなっていった。ただ、ボアソナードはフランス以外の各国の民法も参照し、フランスの判例・学説・独自の見解もまじえて、起草していった。
 なお、親族・相続に関する部分は、当時の我国の風俗習慣に密接に関係することから、日本人の委員によって起草されことになったが、ボアソナードの影響は大きかったと言われている。

 このボアソナード草案は、明治23年(1890年)に公布され、明治26年(1893年)から施行された。これを旧民法という。


3 民法の変遷


 明治26年に施行された旧民法は、その後、幾度となく改正され現在に至る。以下、その変遷を鳥瞰する。

@民法出デヽ忠孝亡ブ


 前記ボアソナード草案が民法典として施行することに対して、明治22年(1889年)頃から反対運動が始まった。帝国大学法科大学(東京大学法学部)、東京法学院(中央大学法学部)が反対派であった。和仏法律学校(法政大学法学部)、明治法律学校(明治大学法学部)が賛成派であった。
 反対派の主張は、ボアソナードの起草した民法典はフランスの風習を前提とするもので、我国固有の慣習に反するというものであった。帝国大学法科大学教授の穂積八束(ほづみやつか)が反対論を展開した論文の題名「民法出デヽ忠孝亡ブ」がそれを明確に示していた。
 明治25年(1892年)、ボアソナードの起草した民法典は、修正のために施行延期となった。
 明治26年(1893年)、政府は法典調査会を発足させ、穂積陳重(ほづみのぶしげ。八束の兄)、富井政章(とみいまさあきら)、梅健次郎(うめけんじろう)にボアソナード草案の修正を命じた。なお、三者はすべて帝国大学法科大学教授であった。

A現行民法の成立


 三人の委員は精力的に起草を進め、法典調査会や帝国議会での審議を経て、明治29年(1896年)に財産法部分が公布され、親族、相続の部分も明治31年(1898年)に公布された。そして、同年7月16日、民法典全体が施行された。これが現在の民法典である。
 現行の民法典は、ボアソナードの起草した旧民法典に修正を加えたものであり、フランス法の影響を受けた部分を多分に残す法典である。ただ、この修正に際して、穂積らの起草者は、ドイツでの民法草案、オーストリア、スイス、イギリスなど多くの国の法律を参照した。

 このような歴史的経緯によってできあがった我国の民法典は、いろいろな国の要素が混在している。編成は旧民法典がフランス式であったのに対し、現行民法典は「総則」「物権」「債権」「親族」「相続」というドイツ式(ローマ法大全の一部である学説集成のギリシャ語名からパンデクテン式ともいう)の構成を採っている。
 もっとも、我国の慣習にもかなりの考慮が払われていることも忘れてはならない。大々的な慣習調査も行われている。

B第二次大戦後の改正


 はじめての大改正は第二次大戦後の家族法の改正である。
 昭和20年8月15日、ポツダム宣言受諾・無条件降伏によって軍国日本は壊滅、平和日本が新しく再出発することになる。「日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障擬を除去すべし。言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし」とのポツダム宣言10項による占領政策に基づき、平和経済再開、経済民主化のための食糧管理物資需給調整、物価統制、金融臨時措置などの管理法令により経済生活を統制するとともに、財閥を解体し、農地改革、財産税徴収、預金封鎖などの処置がとられ、徹底的に民主化する日本国憲法の制定によって、民法中憲法に抵触する諸規定の改廃と民主化のための諸立法による民法原理の変更・修正が行われることとなった。
 戦前の民法典には、たとえば、妻の行為能力を否定した14条、長男に与えられる家督相続を定めた970条など、性別による差別を否定した新憲法14条や家族生活における個人の尊厳と両性の本質的平等を定める憲法24条に違反するものであったことから、全面的な改正作業がなされることになる。

C1962年の改正


 この時の改正は主に相続に絡む改正が行われた。具体的には、特別失踪の期間短縮(3年から1年へ)、同時死亡の推定の新設、相続放棄を代襲原因から排除、再代襲相続を明記、同時存在の原則(888条)の廃止、相続権を直系卑属から子に変更(孫以下は代襲相続)、限定承認・放棄の取消方法の明記(919条3項)、特別縁故者制度の新設が行われた。

D1971年の改正


 民法398条の後に、398条の2から398条の22という21箇条の条文がある。これは、根抵当権という特殊な抵当権について解釈を明確にするために規定された。

E1976年の改正


 民法767条の離婚後氏についての既定が改正された。すなわち、婚姻前の氏に復した夫又は妻は、離婚の日から三箇月以内に戸籍法の定めるところにより届け出ることによって、離婚の際に称していた氏を称することができる旨が追加された。

F1980年の改正


 昭和55年の改正では主に相続についての改正が行われた。すなわち、配偶者相続分の引き上げ(1/3,1/2,2/3→1/2,2/3,3/4)、兄弟姉妹の代襲相続の制限(再代襲の廃止)、寄与分制度の新設(904条の2)、遺産分割基準の明確化(年少者や心身障害者への配慮)、遺留分割合の変更(配偶者相続分の引き上げに連動)が行われた。

G1987年の改正


 昭和62年の改正では特別養子縁組制度が追加された。もともと民法(親族編)が制定された当時は、養子とは『家』を絶やさないことを主な目的とした封建的な色彩の濃いものであった。この改正では、戦後の改革をさらに徹底させるとともに、とくに幼児の養子について特別な制度が設けられた。

H1999年の改正


 判断能力が不十分な者を保護する制度として置かれていた禁治産者・準禁治産者という制度を廃止し、成年被後見人、被保佐人、被補助人という制限行為能力制度が新たに作られた。これは、高齢者社会という問題がその背景にあった改正である。
 ⇒詳細はこちらを参照下さい。

I2003年の改正


 平成15 年7 月25 日、第156 回国会において、「担保物権及び民事執行制度の改善のための民法等の一部を改正する法律案」が成立した。この法律案は抵当権の実行手続きを実効化するために、従来から執行妨害的な事例が問題となっていた短期賃貸借制度を廃止し、滌除制度を改善した上で存続することを主たる内容としており、民法や民事執行法・保全法にも影響を与えた改正であった。
 抵当権等の担保物権の規定を整備し、かつ、担保権の実行手続その他の執行手続の実効性を向上させるため、短期賃貸借制度の廃止、民事執行法上の保全処分等の要件の緩和、扶養等の義務に係る債権に基づく強制執行における特例の創設等の措置を講ずる必要があることが当時の立法理由である。

J2004年の改正


 平成16年の改正は2つある。ひとつは現代語化と不適切な条文の整理である。不適切な条文の整理というのは、判例・通説により補足された要件等の追加と、社会の変化により現在ほとんど使用されていない条文の削除を意味する。たとえば、前者の例としては、108条の自己契約・双方代理について「本人があらかじめ許諾した場合」の例外を明示したり、109条の代理権付与の表示をした場合の表見代理責任の悪意・有過失という要件の明示などがある。後者の例としては、旧35条では、営利を目的とする社団は商事会社の設立の条件に従って法人となることができる旨及びこの場合の社団法人について商事会社に関する規定を準用する旨が規定されていたが、商法(現在では会社法)に同様の規定があると解釈できるので削除したり、旧民法97条ノ2では「相手方又はその所在が不明である場合にする公示による意思表示の方法として、裁判所の掲示場に掲示し、かつ、掲示があったことを官報及び新聞紙に1回以上掲載すべき」とされていたが、他の法律との関連及びそれまでの実務において新聞への掲載は行われていないので削除したりした。
 ⇒法務省民事局参事官室「民法現代語化補足説明」(平成16年8月4日)を参照
 ⇒法律の詳細はこちらを参照下さい。

 もうひとつの改正は、債権譲渡の対抗要件に関する特別法の改正である。正確には「債権譲渡の対抗要件に関する民法の特例等に関する法律の一部を改正する法律」(平成16年法律第148号)である。同法は、法人による動産及び債権の譲渡の円滑化を図るため、法人がする動産の譲渡につき登記による新たな対抗要件の制度を創設するとともに、法人がする債務者の特定していない将来債権の譲渡についても登記により対抗要件を備えることができるようにする等の措置を講じようとすることが目的の改正案である。
 その主な内容は、第一に動産譲渡登記制度の創設(法人が動産を譲渡した場合において、動産譲渡登記ファイルに動産譲渡登記がされたときは、民法第百七十八条の引渡しがあったものとみなすなど)、第二に債権譲渡登記制度の改正(法人が債務者不特定の将来債権を譲渡した場合において、債権譲渡登記ファイルに債権譲渡登記がされたときは、当該債権の債務者以外の第三者については、民法第四百六十七条の規定による確定日付のある証書による通知があったものとみなすなど)、第三に登記事項の開示(すべての登記事項は譲渡当事者、利害関係人及び譲渡人の使用人にのみ開示するなど)の3点であった。

K2006年の改正


 平成18年の改正では、法人に関する規定の抜本的な修正が行われた。これまで民法にあった公益社団法人・財団法人の詳細が特別法に移行するとともに削除された。

L2011年(平成23年)の改正


 児童虐待の防止等を図り、児童の権利利益を擁護する観点から、親権の停止制度を新設し、法人又は複数の未成年後見人を選任することができるようにすること等の措置を講ずるためになされた改正である。
 また、これに伴い家事審判法及び戸籍法について所要の改正を行うとともに、里親委託中等の親権者等がいない児童の親権を児童相談所長が行うこととする等の措置を講ずるため、児童福祉法の改正も行われた。

M2013年(平成25年)の改正


 平成25年12月5日、民法の一部を改正する法律が成立し、嫡出でない子の相続分が嫡出子の相続分と同等になった。
改正の理由は、平成25年9月4日の最高裁大法廷決定により違憲の疑いが強くなったからである。同決定は、民法の規定のうち嫡出でない子の相続分を嫡出子の相続分の2分の1とする部分について、遅くとも平成13年7月当時において、法の下の平等を定める憲法14条1項に違反していたとの決定をした(最大決平成25年9月4日 民集第67巻6号1320頁)。そこで、違憲とされた規定を改め、嫡出子と嫡出でない子の相続分を同等とする改正が必要になった。
 また、改正による影響を受けるのは、相続人の中に嫡出子と嫡出でない子の双方がいる事案である。相続人となる子が嫡出子のみの事案や嫡出でない子のみの事案では、子の相続分は、これまでと同様である。



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